「英語公用語論」の議論を読み返してみる


 以下の文章が8年前のものであるのだが古臭い印象があるだろうか?

(2)グローバル・リテラシーを確立する

 グローバル化と情報化が急速に進行する中では、先駆性は世界に通用するレベルでなければいけない。そのためには、情報技術を使いこなすことに加え、英語の実用能力を日本人が身につけることが不可欠である。

 ここで言う英語は、単なる外国語の一つではない。それは、国際共通語としての英語である。グローバルに情報を入手し、意思を表明し、取引をし、共同作業するために必須とされる最低限の道具である。もちろん、私たちの母語である日本語は日本の文化と伝統を継承する基であるし、他の言語を学ぶことも大いに推奨されるべきである。しかし、国際共通語としての英語を身につけることは、世界を知り、世界にアクセスするもっとも基本的な能力を身につけることである。

 それには、社会人になるまでに日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするといった具体的な到達目標を設定する必要がある。その上で、学年にとらわれない修得レベル別のクラス編成、英語教員の力量の客観的な評価や研修の充実、外国人教員の思い切った拡充、英語授業の外国語学校への委託などを考えるべきである。それとともに、国、地方自治体などの公的機関の刊行物やホームページなどは和英両語での作成を義務付けることを考えるべきだ。

 長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくるが、国民的論議を必要とする。まずは、英語を国民の実用語とするために全力を尽くさなければならない。

 これは単なる外国語教育問題ではない。日本の戦略課題としてとらえるべき問題である。


第1章日本のフロンティアは日本の中にある(総論)
21世紀日本の構想報告書

 情報技術革命、グローバリズムを乗り越えて波乗りすることは容易でない。インターネットと英語を共通言語として日本国内に普及する以外にないであろう。双方についてマス・レベルで幼少期より馴染むべきであろう。

 誤解を避けるために強調しておきたい。日本語はすばらしい言語である。日本語を大切にし、よい日本語を身につけることによって、文化と教養、感性と思考力を育むべきは言うまでもない。だが、そのことをもって外国語を排斥するのは、誤ったゼロ・サム的な論法である。日本語を大事にするから外国語を学ばない、あるいは日本文化が大切だから外国文化を斥ける、というのは根本的な誤りである。日本語と日本文化を大切にしたいなら、むしろ日本人が外国語と他文化をも積極的に吸収し、それとの接触のなかで日本文化を豊かにし、同時に日本文化を国際言語にのせて輝かせるべきであろう。

 すでに国際化の進行とともに、英語が国際的汎用語化してきたが、インターネット・グローバリゼーションはその流れを加速した。英語が事実上世界の共通言語である以上、日本国内でもそれに慣れる他はない。第二公用語にはしないまでも第二の実用語の地位を与えて、日常的に併用すべきである。国会や政府機関の刊行物や発表は、日本語とともに英語でも行うのを当然のたしなみとすべきである。インターネットによってそれを世界に流し、英語によるやりとりを行う。そうしたニーズに対処できる社会とは、双方向の留学生が増大し、外国人留学生の日本永住や帰化が制度的に容易となり、優れた外国人を多く日本に迎え、国内多様性が形成された社会であろう。日本が国際活動の流れから外れてしまうジャパン・パッシングを嘆く事態を避けるには、日本社会を国際化し多様化しつつ、少子・高齢化の中でも創造的で活気に満ちたものとすることである。それが21世紀の日本の長期的な国益ではないだろうか。


第6章 世界に生きる日本(第1分科会報告書)
21世紀日本の構想報告書

 なんだか,この構想のとおりにぜんぜん,日本が進んでいないのは,どこにどれほどの抵抗勢力保守主義者がいるってことなんだか。
 ちなみに,この報告書をつくったのは,

「21世紀日本の構想」懇談会(座長:河合隼雄国際日本文化研究センター所長)は、21世紀における日本のあるべき姿を検討することを目的に、内閣総理大臣のもとに設けられた懇談会です。


「21世紀日本の構想」懇談会


と,国が進めた懇談会だったわけさ。そう捨てたもんじゃないよ,と思うし,なんか夢と希望が元気が湧いてくるなあ,と。