セールスにはオリジナリティを感じません。


 もちろん,私の言葉ではない。司馬遼だ。
 finalvent先生が,営業について日記極東ブログで書かれていたので,それに刺激を受けエントリーを書く。

 以下,引用。

 しかしセールスというものは,若いときにしか,なかなかできないものなのです。非常にすぐれたセールスの才能の持ち主はいますよ。千人に一人といった名人は確かにいて,こういう人ならば,六十になっても八十になっても,セールスはできる。
 しかし普通の人はそうはなかなかいきません。若々しい青年がセールスに来るならば,奥さん方もつい油断するかも知れませんが,四十面を下げてセールスをするのはなかなか大変です。
 若いときと違って,相手を窮屈にしてしまうこともあるかもしれません。
 今の社会にはごまかしがあるのです。人間がセールをするのは本当はつらいことであって,涙がこぼれるようなことがある。大変な労働ではあるのですが,本当の仕事が持つ意味とは少し違うものだと私は思います。
 今は飯が食えないけれど,品種改良を土佐の山奥でやっている人がいて,そういう人が十年先におもしろい品種が出て大喜びしたとします。こういう一生の計画の喜びとセールスを比べたらどうでしょうか。
 セールスは大変です。しかし売るものは,しょせんメーカーのこしらえたものでしかありません。言葉が悪いかもしれませんが,私はそこにオリジナリティーを感じません。
 いいか悪いかを言っているわけではないのです。セールスにはそれなりに意義があります。セールスに象徴される今の社会,経済について言っています。


司馬遼太郎 全講演[2] p.257〜258


 以前にも,「司馬遼太郎も言う「必要のない人間が出てくるかもしれない」」のタイトルで書いたエントリーと同じ講演からの引用。
 司馬遼は,繁栄の末,欲しいものが何も無いぐらいの豊かさを実現したにも関わらず,メーカーはその存在のために,なおも売りつけなくてはならないこの時代において重要となった「セールス」という仕事の存在から,社会を語っている。
 いま,僕らはより一層「売りつける」ための技術の長短を論じ,広告やマーケティングの技を磨いている。
 逆をいえば,「売りつけられる」僕らでもあるのだが,そうやって「その気にさせられる」前に,スタイルや糸井重里のいう「消費のクリエイティブ」の問題なのだろう。この観点で考えねば,いつまでも「セールスの大変さ」がつきまとったままになると思うが,いかがだろう?


司馬遼太郎全講演〈2〉1975‐1984 (朝日文庫)

司馬遼太郎全講演〈2〉1975‐1984 (朝日文庫)