「あんたは頭が良すぎるんだ」と勝手に妬まれる件について


−自分より頭のいい人,勉強のできる奴なんて何百万人もいるんだって。本当に勉強してる奴はどれほどやっているかだって知ってる。彼らになんか,はるかに及ばない,全然勉強してないんだって,こっちは。どれほど,自分がものを知らないか,知ってるんだよ。


本音を言えば,こうなる。ブログのエントリーで書くようなことか,とも思うけど大晦日,1年の終わりにはイイんじゃないかな。
 「頭イイなんて言われて,嬉しいわけじゃないですよ」。今年,こう言わせられる場面があった。結構,これは辛く,そのことで日常,ふと意表をついて頭に浮かんできたりする。私がこう言った後に,「バカだ,って言われるよりイイじゃない」と告げられ。「はあ,そうかもしれないですけどね」と返事をするのが精一杯だった。
 たしかに,人からバカにされる,蔑まされるのはみじめであり,情けなく,つらい。努力したってここまでしかいかない,その「ここまで」だとか,もっとあるはずの高さまで思いが至らずに「わからない」,どう努めることがいいのだ,と苦しさの中にいるのは本当に辛いことだと思う。
 しかし,これは共感が得られる,得やすいのではないだろうか。「いやー,自分って全然,ダメでさ」「あー,そう思うことってあるよねー」と。もしくは慰めや同情を引き出しやすいとも言えるのではないか。「そんなことないよー」と。こうして勝ち残らない全ての者の輪に入れてもらえるわけだ。
 これが,頭がイイ,と言われた瞬間に起こることとは,関係の遮断だ。どこに共感や同情が得られよう,どうして温かい言葉をかけてくれることにつながろう。目の前の相手を頭がイイ,と言ってしまうことで,自分は自分を含むその他大勢の森に入ってしまう。こっちは広場にポツンと置かれた状態になる。つながりを拒まれた状態,そうシカト状態に入るわけだ。


 今年は「あなたにコンプレックスを持っています」とも言われた年だった。しかも第3者を介して。いや,だから,は?何ですって?これにも頭を抱えた。私に何がどうできるのか,思い浮かばない。ただ,私自身にぶつけられた「問題」が残される。
 結果として,何かをやすやすとやっているように見せてしまったり,夢中になって取組んでいることがあったり,つまらなそうなことを面白がったり,楽しんでやったりしている姿とは,時として,人によっては,ムカつかせてしまうことなのだろう。


 一年の反省,いや,ここまで生き延びたことを踏まえての反省をせよ,ということだ。私の不徳なのだ。「仁」の問題なのだ,と思う。私は私自身の小ささを理解しているつもりだし,小さいが故に目の前のことに持てる力を注いできた。それが為し成すための方法だった。しかし,その方法に周りの方々がどう思い,どう受け止めるかまで十分,思いがめぐらせていたわけではなかったし,特段,配慮をしてもこなかった。また,自分自身を人間としての最小値に(勝手に)おいて,モノゴトをとらえていたため,自分より小さい,小さく思う人への理解もしてはこなかった。


 何やら結論めいたことを書くわけではないが,「忠」と「恕」なのだろう。明日からの新年は,これを心がけよう。そう思うのだ。

日本の科学技術の発展を妨げているもののひとつは、「勉強ができる」ことを蔑みの対象とするような、小学校から企業にも広がる精神風土なのではないか。


「勉強ができる」という蔑称 - 理系兼業主婦日記


はてブにスターをいただいていたときに,こう思った。どうしたらよいものか逡巡した。あまりにもプライベートなことなので,id:pollyannaさんにはてなメッセージかメールでもしたらよいか,とも。実際,書き出してみて,言われて心に刺さっていたトゲがずいぶんと気にならなく,対象との距離を感じることができている。
 せっかくなので,この引用部分に言及すると,id:pollyannaさんが指す「精神風土」とは,「小学校から企業」だけではなく,地縁,血縁,兄弟姉妹,ご親戚ご親族一同さまに広がるものだと思う。


 ただ,こうして言われることで気づかさせてくれて見えた世界の存在とその行為に,感謝もしよう。