いま,輪の外にいて疎外感を噛みしめている気持ちに近づける−山崎ナオコーラ著「ここに消えない会話がある」を読んだよ。

 この同時代感をたっぷり含んだ空気を共有できずにいて,同じ読後感が得られるだろうか?本を閉じて,表紙に目を落としてときに,この社会,世間,世の中がどんどん変わってしまった先,この本が伝える時代の気分が痛覚を通じて伝わって来るこの感じを理解してもらえるだろうか。

 しかし岸にいたっては野球のルールを知らず,「投げる人と打つ人がいる」という程度のイメージしか持っていない。野球の知識がない,というよりも,積極的に嫌いだ。
 たとえば,野球用語を日常でも通じると思っている人に,岸は反感を抱いている。
 「まさに逆転ホームランですね」なとと言われるときも,逆転の意味はわかっても,ホームランは「遠くに飛ばす」ということを何となく思うだけだ。チャンネルを替える時にちらりと見たことがあるくらいで,野球のゲームを通して見たことがない岸は,感覚としてのホームランを知らない。それなのに,人々はすぐに,日常の状況を野球にたとえる。そのことに腹が立っていた。


p.71〜72 「ここに消えない会話がある」 山崎ナオコーラ


岸とは,主人公。野球に関心を持たずに大きくなり,社会に出て働いている女子だ。「女子力」が決して高いわけじゃない。むしろ,人間である自分が主であって,女子である自分は副という意識だろう。その彼女の視線は,野球への関心が高くて当たり前が前提になっている男子社会の「当然だろ?」にムカついているわけだ。実は,サッカー男子だって,結構,疎外感は高いのだけどね。

 自分のミスを,同い年の男の子に責任とってもらうことほど,屈辱的なことはない。


 あれを書いたのは私だ。私が静岡へ謝りに行きたい,でもそれは許されないのだ。
 岸は死にたくなった。


 デスクの田尻が佐々木を,「佐々木くん」と普段は呼び,社外の人には,「うちの佐々木東洋が」と言うのは,家族のように見なしているからだ。疑似家族ごっこが大好きな日本の企業が,新卒で採った子だ。これから先も,ずっとつき合っていって,仕事の能力を伸ばすように,いつも期待をかけ,時には怒り,育て続けよう,と思われているのだ。
 しかし,広田や岸や魚住のことは「広田さん」や「岸さん」や「魚住さん」と呼ぶ。社外の人に挨拶するときも,「うちで働いてもらっている岸さん」と言われた。他人なのだ。
 自分の仕事に責任を持つことが許されない。
 ここに居たら一生私は人に謝らせてもらえないのだ,岸は知った。


p.88〜89 「ここに消えない会話がある」 山崎ナオコーラ


岸は,仕事でミスをした。しかし,岸は,派遣社員だ。同じ仕事をしながらも,派遣であるので,その会社の輪の内側には入ることができない。責任がないから楽でしょ?ではない。自分の仕事と呼ぶべき対象がないのだ。仕事ではなく,作業だけが存在している。だから,その作業を仕事として成果を実感できる立場にあるものが,責任をとらされる。しかし,それは責任を取る対象だから,やりがいもあるのだ。そのことが岸にとっては羨ましいのだ。だからこそ,同じ人生の時間を過ごした同い年の男の子がする謝罪が,屈辱なのだ。作業はさせられるけど,仕事をさせてもらえないことに。

 「有名大学を出て,頭が切れて,かっこいい人は,自分と気の合う人とだけ仲良くしながらも,成長したり,幸せになったり,できるのかもしれません。でも,私は違う。四流大学を出て,資格は一つ持っていません。クルマの免許さえないんです。頭は悪いし,一生懸命話しても『言っていることの意味がわからない』と聞いてもらえないことがしょっちゅうです。手持ちのカードがゼロなんです。でも,私は生きていたい。仕事を見つけたり,愛してくれる人を見つけたりしないと,生き抜けない。気の合わない人とも話して,駄目を人を愛し,愛されないと,私は寿命を全うできないんです」
 と吐露した。
 岸は,実は出身大学のことが好きなのだが,人前ではなぜか変なふうに言ってしまう。この前は「二流大学」と言っていたのに,今は「四流大学」と余計によくわからなくなっている。
 「確かに,自分と気の合う人と喋るだけでは,生きていけないですよね」
 広田は頷いた。
 「そう。『気の合わない人とも話したい』というのはきれいごとではなくて,切実なことなんです。そうしないと私は,もうすぐ死んでしまう」


p.90 「ここに消えない会話がある」 山崎ナオコーラ


軌道に乗ることができた人は,その軌道を進むことで成果を積み,成功へとつながってゆく。しかし,最初から軌道に乗れなかった岸や,広田は,言っていることの価値さえ認めてもらえていない気分なのだ。ちゃんと輪に入れてほしい。仕事を通じて世の中と関わらせてもらいたいのだ。だが,それが適わない。

 その人っぽいことがおかしいとされる世の中だ。
 全然喋らない人は,
 「あの人って,全然喋らないよね」
 と揶揄されるし,よく喋る人は,
 「あの人,よく喋るよね」
 と笑われる。
 平均値から大きくずれると,陰口の対象になったり,笑われる的になったりするのだ,と広田は思っていた。


p.97〜98 「ここに消えない会話がある」 山崎ナオコーラ


自分がそのままでは,いけない。できる限り,平均値であることが望まれる。だって,空気がよめてなくてはならない。つまり,その場の空気の役回りのときは,しっかり空気を演じきれなくては,KYになってしまう。同調圧力は同化圧力であるのだ。

 友だちもいないし,仕事を続けていくには広田の神経は繊細過ぎる。どうやってあと何十年も過ごしたらいいのか。この世はキュウクツ。居場所がない。日本は苦しい。
 生きるとはこんなに不安なものなのか。
 しかし,広田はこれを抱えていくことに決めた。不安。
 波があって当たり前,障害があって当たり前。すぐに憂鬱になることも。
 波があるから,波乗りできる。

 問題が起きたときは,原因を突き詰めるよりももっと大きいことを考えた方が解決しやすい。
 意識を高くすること。
 直接的な答えの書いていない本でも,読んで,それについて考えていると,今の問題が薄まる。よく子どもの読書離れがどうの,「本を読め」だのと聞くけれど,そんなの放っとけばいい。本なんか読んだって,頭が良くなるものか。ただ,傷ついたときは本を読め。芸術なんてものはそのためにある。弱い人のためにあると言って過言じゃねえ。


p.101〜102 「ここに消えない会話がある」 山崎ナオコーラ


弱きものと芸術。芸術が心を奪うとき,ちょうど,心が浸っている感情を洗い流して,芸術の世界につれてゆく。だから,心が弱くなったとき,折れそうなとき,折れてしまった時に,芸術はより,力を発揮するのだろう。

 二人で黙るのは楽しい。喋ると「伝え合う」ような気分になってしまうけれど,黙ると「共有」のような気持ちになる。


p.108 「ここに消えない会話がある」 山崎ナオコーラ


二人がつくる「場」は,「じっ」とくっついているときにできるもんだよね。

 少し苦しい。
 しかし,痛みというものは消えることがないが,薄らぐという性質を持っている。


 先に続く仕事や,実りのある恋だけが,人間を成熟へと向かわせるわけではない。ストーリーからこぼれる会話が人生をつくるのだ。


p.108〜109 「ここに消えない会話がある」 山崎ナオコーラ


「少し」なのだ。だが,「少し」だとも理解している。誤摩化さずに,「少し」苦しい,と。これをちゃんとみつめているのだ。そのことを評価したい。いい加減に「少し」を排除してきたのだ。「少し」に対して,見て見ぬ振りをしてきたのだ。どうせ,本筋の「ストーリー」から外れることだから,と。だから,いまの世の中,成熟した大人が少ないんじゃないのか。
 いまの大勢に迎合して大きな固まりにやすやすと吸い寄せられてしまう側は,楽でいい。だか,そうじゃない,マイノリティーで生きる人たちの気持ちに近づくこと,そして,グローバル化する社会とは,多種多様なマイノリティーが,自分を等身大に生きる社会だと認識し,未来をつくる上でも,山崎ナオコーラの写す、手触りのある気持ちを知ることが大事だと思うのだ。



ここに消えない会話がある

ここに消えない会話がある