絆についてメモしとく


 ある種の違和感を表現できずにいることのもどかしさを,単に語彙の貧困といってしまえば,それだけなのだけど,のど元にひっかかってしまっているのも調子悪く,いかんともしがい。そこを他の人が突いてもらえるとうれしい。
 何をもじもじしながら書いているかというと,面と向かって向かって言いにくい「絆」って,やつね。

本来は動物とかをくくりつける引き綱。“@logout1978: 「絆」って言葉はあまりにも聞こえがよすぎて、それはそれで思考停止を招く危ない言葉なのではないかという電波を受信中。”


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http://twitter.com/#!/finalvent/status/150920521209491456


2011年の漢字だったわけだが,正直,それが選ばれちゃうわけ?と思った方も多かったようだ。finalvent先生もこうして「絆」について触れていた。
 「絆」コールへの違和感をさらに表明してくれている方がいた。

 確かに私たちは被災経験を通じて、絆の大切さを改めて思い知らされたはずだった。昨年は流行語大賞に「無縁社会」がノミネートされたことを考え合わせるなら、震災が人々のつながりを取り戻すきっかけになった、と希望的に考えてみたくもなる。

 しかし、疑問もないわけではない。広辞苑によれば「絆」には「(1)馬・犬・鷹(たか)など、動物をつなぎとめる綱(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛(けいばく)」という二つの意味がある。

 語源として(1)があり、そこから(2)の意味が派生したというのが通説のようだ。だから「絆」のもう一つの読みである「ほだし」になると、はっきり「人の身体の自由を束縛するもの」(基本古語辞典、大修館)という意味になる。

 訓詁学(くんこがく)的な話がしたいわけではない。しかし被災後に流行する言葉として、「縁」や「連帯」ではなく「絆」が無意識に選ばれたことには、なにかしら象徴的な意味があるように思われるのだ。

 おそらく「絆」には、二つのとらえ方がある。家族や友人を失い、家を失い、あるいはお墓や慣れ親しんだ風景を失って、それでもなお去りがたい思いによって人を故郷につなぎとめるもの。個人がそうした「いとおしい束縛」に対して抱く感情を「絆」と呼ぶのなら、これほど大切な言葉もない。

 しかし「ピンチはチャンス」とばかりに大声で連呼される「絆を深めよう」については、少なからず違和感を覚えてしまう。絆はがんばって強めたり深めたりできるものではない。それは「気がついたら結ばれ深まっていた」という形で、常に後から気付かれるものではなかったか。

 つながりとしての絆は優しく温かい。利害や対立を越えて、絆は人々をひとつに包み込むだろう。しかし、しがらみとしての絆はどうか。それはしばしばわずらわしく、うっとうしい「空気」のように個人を束縛し支配する。たとえばひきこもりや家庭内暴力は、そうした絆の副産物だ。

 もちろん危機に際して第一に頼りになるものは絆である。その点に異論はない。しかし人々の気分が絆に向かいすぎることの問題もあるのではないか。

 絆は基本的にプライベートな「人」や「場所」などとの関係性を意味しており、パブリックな関係をそう呼ぶことは少ない。つまり絆に注目しすぎると、「世間」は見えても「社会」は見えにくくなる、という認知バイアスが生じやすくなるのだ。これを仮に「絆バイアス」と名付けよう。


時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環 - 毎日jp(毎日新聞)


 言わなくても「わかる」だろう,だって「絆」で結ばれているから…。という,押しつけが絆の象徴するものだ。そうじゃない。きちんと言葉にして伝えること,互いのニーズやウォンツを交換し,モノゴトをやり取りすること。救急救命の次のステップは,社会をちゃんと成り立たせることだ。
 だって,そうだろう。起業家は投資家の説明が求められ,政治家は有権者に言葉で政策を伝え,行政は市民に情報を公開し,営業マンは消費者に商品を性格に伝えなくてはならないのだ。面倒だが,それが市民社会だ。

 人々が絆によって結ばれる状況は、この種の改革とたいへん相性が良い。政府が公的サービスを民営化にゆだね、あらゆる領域で自由競争を強化し、弱者保護を顧みようとしない時、人々は絆によっておとなしく助け合い、絆バイアスのもとで問題は透明化され、対抗運動は吸収される。

 もはやこれ以上の絆の連呼はいらない。批評家の東浩紀氏が言うように、本当は絆など、とうにばらばらになってしまっていたという現実を受け入れるべきなのだ。その上で私は、束縛としての絆から解放された、自由な個人の「連帯」のほうに、未来を賭けてみたいと考えている。


時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環 - 毎日jp(毎日新聞)


 なぜ,「絆」が連呼されたのか。遺跡や架空の存在を幻想して勝手に懐かしんだところで話しにならない。
 言って伝える,当たり前のコミュニケーションにもとづく社会を,ちゃんとつくろうということだ。