あの3・11が金曜日で,今日の3・11が日曜日であるということ


 さて,1年が経った。
 あれから3カ月。あれから半年。と,折り目ごとに整理された情報を浴びてきただけに,1年の今日,情報であふれかえることを,送り手側も含めてのことだろうが,予想していただけに,ほどほどに抑制の利いた報道となっているのではないだろうか。
 1年前のあの日の午後は,平日だったため,職場のある建物の9階で揺れを感じた。さすがに古いだけあって揺れた。それでも都内で震度3を経験したことがあれば,震度2って,こんなもんだよね,と思う程度だった。ただ,最初の揺れ方からしばらく経って,打ち合わせに向かった5階での余震の揺れは気持ち悪かったな,と思い出す。あの日も,いろいろな仕事が右から左へと流れていたはずだが,職場にどれほど遅くまで残ったのかは記憶が無い。ただ,夕方までには主にネットを通じて震度の規模は概ね把握できていたように思う。
 帰宅し,テレビを点ける。映し出したチャンネルで情報が繰り返しになると,すぐさま,ほかのチャンネルに切り替えた。とにかく,テレビとネットでわからなすぎる状況を知ろうとした。情報を仕入れることに注力した。誰彼と連絡した記憶は,ほとんどない。震災当日は,キー局が主に伝えいたのは帰宅困難者の情報だったか。続く土曜も日曜もテレビを見続けていたように思う。途中,テレビのスイッチを切れなくなっている自分がいることに気づいた。これはダメだ,いったん,情報を遮断しないと自分がおかしくなってしまう,とも思った。意識して,テレビを断った。ただ,原発関連のニュースが多くなりだした3月13日(日)ころ,テレビがぎこちなくなり出したのが印象的だった。どうにも歯切れが悪い。ストレートに伝わらないもどかしさが視聴者にもわかった。その際,遠くの知人に,なんだか報道がおかしくなってないか,まずいことがおきているんじゃないか,と電話した。とても気持ちが悪かったのだ。
 震災当日は,平日の金曜日で,その二日目,三日目が土日だったということ。おそらく,日本中,いや,世界中の大勢がニュースを追う時間を得たということであり,そのことが余計に,僕らに記憶を刻み付けたということを,今日という日曜日の3・11に思うのだった。