読書感想文「空洞のなかみ」松重 豊 (著)

 あぁ,そうか。一つの道を歩んできた人には,その道すがら見てきたもの,知らずに登った山坂から見える眺めが,言葉を連ねさせるのだな。そんなことを松重豊の短編小説に思う。
 妄想とも夢の断片とも思わしき正体のわからぬ状況を,テレビや映画の「現場」のシーンを通じて,読者に提示し物語は始まる。有名俳優だもの,こんなことはあるだろうな。そんな風にカットの声が掛かるまで身構え,体や表情を動かすのだろうな。相手役やスタッフに対して,そんなことを思っているんだろうな。馴染みがある役者だけに入り口を受け入れてしまう。だが,妄想譚は,その途中から訳がわからなくなる。不安になる。どうなるんだろう。どこに落ち着くのだろう。
 そうしていても,短編である。読み進むと,キッチリとオチをつけて終わらせる。12編すべてにおいて,そう。松重豊として,このサゲで行きましたよ,と。松重ワールドとは,こんな奇譚だったのである。真面目な役柄の多い人ではある。だが,なかみはマトモじゃない人だったのだ。



空洞のなかみ

空洞のなかみ

読書感想文「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」デヴィッド グレーバー (著)

 「王様は裸である」と種明かししてしまった本である。
 なぜ,やりがいを感じられもしない仕事で,真っ当な額の収入を得てしまっているのか。いい大人はそんなことを口にしないものだ。しかし,働いたことで価値を生み出し,そのことで生業として収入を得る。そんな価値を自分の職業としての働きに見いだせない人があまりにも多いんじゃありませんかね?とデヴィッド・グレーバーは言うのだ。調べましたよ。ずいぶんとたくさんの人が,そうですよね?と。
 いま,我々の社会において必要とされることの一つが眼前の問題に対する「スピード感を持った取り組み」である。実際に,仕事を加速させたり,当初の日程を繰り上げたりすることじゃない。いかにも,忙しく「やってる風に」見せることだ。いやー,大変そうですよね?と。物分かりのいい人に,そう言わせりゃ勝ちだ。いや,価値か。実際の測定可能な仕事量ではないのだ。いかにも「やってる」と思われればよく,きつい仕事(シット・ジョブ)が蔑まされたままに。
 そんな「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」が蔓延する社会に僕らは生きているんだ,とバラしちゃった本だ。


読書感想文「音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日」岡田暁生 (著)

 合唱がもっともヤバい。長時間,ひとが集まり,お喋りするのもリスク。いま,ナマの音楽,舞台芸術は,これまでとは別の世界にいる,と言っていいだろう。
 不用不急−と呼ばれた芸術娯楽,まして音楽イベント,そもそも,じゃあ音楽って何なんだ?とこの機会に遡って考えた一冊である。
 音楽は演奏家,聴衆からなる。現代の我々にとって当然だが,これは当たり前じゃなかった。祭りや,宮殿に客として招待され,音楽がそこにあったのが,ハイドンベートーヴェンの時代に初めて「コンサート」なるものが生み出されたのだ。やがて,メディアが録音された音楽を届けるようになり,音楽がすみずみにまど行き渡る時代になり,掌に収まるまでになった。
 これから,音楽,とりわけライブはどうなるか。ひとが集まることそのものが,感染症疫学上の数値をあげてしまうのだから,無観客ライブ,少人数や客席を間引いての催行としかならない現在から,未来を見通すことは難しい。ただ,歴史から現在地を測り直す行為は,やがて様子が変わった際に,それぞれにとって立脚点となるだろう。



読書感想文「たのしい知識――ぼくらの天皇(憲法)・汝の隣人・コロナの時代」高橋 源一郎 (著)

 「我らがGTこと高橋源一郎」と呼んだのは評論家になる前,自動車雑誌「NAVI」編集部にいた武田徹である。GTは自動車雑誌にも寄稿していた。当時,武田徹は誌内でタケちゃんマンと呼ばれていたが本人含め,どうでもいい話だろう。
 さて,そのGTこと高橋源一郎が,教科書を書いた。目的は何か。世の中のことを知るためである。もとは文学探偵である。真相を明らかにするのが探偵の探偵たる所以なのだから,とことん,解き明かすのだ。文芸時評をやっている頃は,文学について語っていたのが,GTはなんと論壇時評にまで進出する。この世を,この世界について論ずるあらゆるテキストを相手にし出して以降,GTは止まらないのだ。
 天皇憲法を,世界中の憲法と並べ,何がどう特殊で特別なのか(全然フツーだった!),むしろ,その出自に由来する当時の世の中を辿ることで明らかにしてしまう。隣人・隣国を理解するための「言葉」を言葉そのものの存在から考え直す。そして,コロナである。
 江川卓の隣で競馬予想していたGTは,文学探偵であり続け,文学を教える先生になった。その先生を終えたにも関わらず,混乱するこの世界が必要とする教科書を自分で書いた。生徒である僕らは用意された教科書をただただ,手にとればいい。どう読むかは僕ら次第なのだ。


読書感想文「選択の科学」 シーナ・アイエンガー (著)

 自由と損得の話である。
 人は,「選びたい」のだ。自分の意思や気分,欲求によって,選択したいのだ。そして,選べることそのものに自由を感じるのだ。わーい,コッチにするー。子どもか。
 その一方で,人は迷う。どーしよー。コッチもいいけどー,でもなー,アッチもー。早くしなさい。どっちがイイの!もう,行っちゃうわよ。置いてくわよ!じゅあ,イイ!えっ?あんた,欲しいって言ってたじゃない?どーすんの。もう,イイの!イイって,あんた,わざわざ来たんじゃない,決めなさいよ。だけど,イイの。もう。えーん。である。
 どちらも欲しくても,コレである。選択肢が多過ぎても,ましてどちらも選んでもネガティブな結果とならざるを得ない選択であれば,なおさらに選べない。選ぶことを,あれだけ希求していたはずなのに。
 専門家への助言や相談,リコメンドが重要である。そのために,専門家として選ばせる側の表現は丁寧であらねばならない。そして,自分自身の直感と熟考による判断と,その判断を受け入れる覚悟が最良の選択となることを我々は,この一冊を通じて知るのだ。


選択の科学

選択の科学

読書感想文「世間とズレちゃうのはしょうがない」養老 孟司 (著), 伊集院 光 (著)

 感覚派の養老先生と理論派の伊集院の対談である。
 二人に共通するのは,「嫌なことはしない」である。ただ,実家が太いこともあって,養老先生は好きな方を選び,嘘くさいことに疑問を呈してきた。多くの弟子を残し,本質を突く変わらぬ言動は重宝されることとなった。
 一方,落語の世界からスタートし,話芸を舞台からラジオやテレビの世界へと場を移し,地位を築いた伊集院光。「この芸を極める」,「大看板になる」,「冠番組を持つ」という競争の大渋滞を避け,子どもの頃から自分が通れる道を探してきたことを続け,いまのポジションについた。
 いま,養老先生や伊集院に憧れる人も多いではないか。蕩蕩とした佇まいや,何かの渦中にいずに世間を眺めているさまに,である。あえて言っておこう。彼らは意識して,そちらに行ったのではない。もともと,そういう人だったのだ。いま,憧れる人が多い分,彼らの地位への道は渋滞し,競争が激しくなっているぞ。


読書感想文「喬太郎のいる場所 柳家喬太郎写真集」橘 蓮二 (著)

 ただの喬太郎ファンブックではない。のちに貴重な柳家喬太郎自身の証言としての同時代史料となるだろう。
 「古典落語をやるときには,古典落語をやるんだからこうできゃいけねえ,みたいなものがお客さんにもあるし,僕らの側にもあったりするわけですよね。(略)その反面,現代をしゃべらなきゃいけないみたいな変なプレッシャー,まあ談志師匠的な,「いかに現代と格闘して生きているか」ってことも言わなきゃいけねえのかなって。談志師匠には,僕もかなり影響をうけていますけれど」。ここまで,素直に談志に影響を受けた,とカミングアウトした喬太郎を知らない。「伝統を現代に」や「江戸の風」の談志のセリフを屈託なく口にする。
 そうなのだ。意識しないはずがない。「落語とは?」に,いちいち答えを出してきたのが,談志である。同じ時代に同じ生業の落語家,ましてトップランナーの一人である喬太郎が影響を受けていないはずがない。
 喬太郎は,「落語という芸能」について語る。「落語って,お客さんが熱狂して割れっかえるように入る芸能ではないんだと思うんですね。寄席も360日以上やっているところなので,そんなに毎日入るわけはないですよね」。本人がホールを埋め尽くさせる力量を見せつける一方で,落語を冷めた芸能でもある,と言う。
 つまり,落語という話の構造やオチやサゲを古典の枠の中でどう現代性を担保させるかを格闘し,さらに落語家そのものが身についた技芸という箱であるとして,その箱を通すことでどんな噺も面白くできるのが落語家だとすれば,落語家そのものを見に来るのだと喝破した立川談志。一方,昭和38年生まれで,貧乏と縁なく育ち,テレビそのものが自我の発育と同時にあった,まさにテレビに育てられた最初の世代の子である柳家喬太郎は,「落語という芸能」を愛しながらも,決して,落語の世界の人,落語界の人として自分を置いていない。だから,「落語という芸能」と客観視できる。おそらく,座布団の上の自身を俯瞰して見られるだけではなく,柳家喬太郎そのものも分離させて,客席と舞台上との間の空気を推し量れる特殊能力を持っているのだ。
 剛腕・談春,変幻自在のキング・喬太郎,鉄板の志の輔,軽さの開拓者・昇太,正統派・三三,歌の巧さとスケールの大きさ・市馬,洒脱の兼好,巧者・一の輔,楽しくワクワクな白酒。いま,トップランカーはベラボウな強者揃いの中,孤高の存在なのが喬太郎である。そのヒントは,兼好師がいう「現代の落語家さんにはない”熱くない狂気” がありますね」だ。才能,技術,知識はあったろう。だが,留めようのない狂気と必死にバランスを取っている喬太郎。どうぞ,ナマでご覧あれ。


喬太郎のいる場所 柳家喬太郎写真集

喬太郎のいる場所 柳家喬太郎写真集

  • 作者:橘 蓮二
  • 発売日: 2020/07/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)