読書感想文「「利他」とは何か」伊藤 亜紗 (著),中島 岳志 (著),若松 英輔 (著),國分功一郎 (著),磯崎 憲一郎 (著)

 この時代に,他人のためにただただ汗して労している人たちがいる。
 ここでいう他人とは,疫病に罹患している人のみを指すのでは無く,疫病で止まってしまった社会,世の中を言う。これを再び回すため,もとに戻すために尽力している人たちを見るとき,通常のマインドセットではいられない。強欲,自己犠牲ではない利他とは何か,という根源的な疑問が湧いている。そこに立ち上がったのが,人文科学の東工大オールスターズの面々である。
 いったい周りのために尽くすとは,どういうことなのか。欺瞞や偽善,取り繕い,気恥ずかしさ,インチキといった善行にまとわりつくものを意識してしまうとき,つい踏みとどまってしまう。いやいや,取った行動が確実に他人のためになるのか。喜んでもらえる結果となるのか,そもそもが不確実であり,結果を期待しないアクションではないのか。その行動を起こすスイッチとはいったい何なのか。
 ズブズブと五人の著者がつくる思考の渦に埋もれていこう。膝を打つこと請け合いだ。


読書感想文「平成の終焉: 退位と天皇・皇后」 原 武史 (著)

 平成の天皇,皇后はどう行動したか。
 2019年3月20日発行,つまり平成が終わる4月30日のひと月前に,立ち止まって考えるため企図された本だ。
 平成の天皇,皇后とは,あちこちに出向き,市井の声を聞くために人の輪に入り,膝を折り,問いかけた。その姿とは何だったのか。「象徴」とは何かを求めた姿ではなかったか。聖性をまとい祈る。そうすることで追い求めたのだ。昭和と違い,戦時下とはならなかったものの,平成という時代も,震災,火山噴火,テロ,経済危機など人々の生活を揺るがす事態が続いた動乱の時代である。決して穏やかとは言い切れぬ時代だった。
 第一線を退き,一つの時代の区切りとなる「改元」を迎えたとは言え,まだまだ気分が一新されたとはいかない。まして疫病が流行し,人前に現れるのもままならないのだから,困難な新時代のスタートとなった。やがて,令和を振り返るときが来る。そのときにきっと参照元となる一冊だ。



平成の終焉: 退位と天皇・皇后 (岩波新書)

平成の終焉: 退位と天皇・皇后 (岩波新書)

  • 作者:武史, 原
  • 発売日: 2019/03/21
  • メディア: 新書

読書感想文「これやこの」サンキュータツオ (著)

 サンキュータツオとは,文章の人だ。
 ラジオ番組にレギュラー出演し,漫才師として舞台に立つ。そして,「渋谷らくご」の主催者である。だが,彼がもっとも輝くのは文筆である。このエッセイでは,「渋谷らくご」の成り立ちから,どうしても高座に上がってもらわなくてはならない二人,柳家喜多八立川左談次が中心である。
 とにかく,この二人はカッコいいのだ。団体の幹部か,ノン。大勢の弟子がいるか,ノン。テレビ出演の常連か,ノン。満杯の寄席やホールをギャグで爆笑を取るか,ノン。違うのだ,この二人は面白く,佇まいが惹きつける。落語好きなら,堪らない二人だ。サンキュータツオは,この二人を「渋谷らくご」の中心に据える。
 二人はガン死した。失ったものは忘れ去られてゆく。だが,こうして二人を文字に残したサンキュータツオの仕事によって,存在が残る。演芸という淡くその場,その瞬間を目撃した者だけの記憶になってしまうところだった芸を伝えるこの仕事に,落語ファンの一人として著者サンキュータツオに感謝したい。


これやこの サンキュータツオ随筆集

これやこの サンキュータツオ随筆集

読書感想文「いつも鏡を見てる」矢貫隆 (著)

 NHKの番組に「地球タクシー」というドキュメンタリーがある。世界各地の都市に出かけ,その街のタクシーにディレクターが乗り込み,その街ならではドライバーの人となりと,街が置かれた物悲しさがダイレクトに伝わる見逃したく無い番組だ。
 そんな番組を思い出さずにいられない矢貫隆の現場からのレポートである。悲哀ではない。カラカラとした,車の前席と後席のような距離感のある人間関係のタクシードライバーの世界だ。当たり前に誰しもが持つようになった運転免許証プラスアルファで就くことのできる職業であり,機転と努力と体力で一人で稼ぐことのできる商売だから,と言えそうだ。当然,多くの者がその職に就いたり,離れたりする。
 世の景気に敏感な商売だ。経済にとっての「炭鉱のカナリア」だ。世界のバロメーターの針そのものがタクシーではないか。だから,カナリアや針先のように儚く脆い。
 「いつも鏡を見てる」とは,運転席から覗き込む後席であるし,フェンダーミラーやドアミラーに映る世間である。ここに描かれているのは,そんな昭和末期から平成,そしてコロナ禍とともに始まる令和の世間だ。


読書感想文「禍いの科学」ポール・A・オフィット (著)

 「まぁ,落ち着け」である。
 バラ色の未来を約束する素敵な魔法もたまにはある。だが,おっちょこちょいの僕らは,つい乗って,乗せられて,「発明」や「アイディア」や「ニュース」に飛びつく。そして,往々にして取り返しのつかない顛末を迎えるのだ。
 科学はどこまで行っても純粋に科学だ。しかし,その科学的知見を受け取るのは,ただの人間社会だ。理性的でも合理的でも無いのだ。強欲だし,思い込みが激しく,猜疑心にまみれた愚かしいオレ達なのだ。アヘン,トランス脂肪酸,窒素固定法,そして優生学ロボトミー手術。紹介される各章には,うんざりだ。発明や着想は素晴らしくとも,それを受け取る側がことごとくパーだと,ろくなことにならない。チェックすべき対象は,「発明」や「アイディア」なのだろうか。違うだろう,浅はかでお調子者の僕らの方だ。
 いま,この瞬間にも過ちを犯していないか。本当に社会を進歩させることに,その知見は生かされているか?「過去の振り見て,我が振り直せ」である。


読書感想文「読書と日本人」津野 海太郎 (著)

 我々はどう読んできたか。源氏物語の時代から,どうやって読書人たり得たのか。
 発端は,出版の危機らしい。「かたい本」が売れていないのだ,という。ほほう,そうか。じゃあ,マンガばっかり,テレビばっかり見ていた連中だらけになって,バカな世の中になったか。殺人はもちろん,青少年犯罪も減っている。栄養不良や餓死も減っている。
 本が売れた。全集が売れた。確かにそんな時代があったのだろう。読まないような「かたい本」が,ただ並ぶだけの。それはろくに飲まないような洋酒が並ぶ茶箪笥と同じように,並んでいるだけで嬉しくなっちゃう本があちこちの家庭に揃った見栄と虚栄の時代だ。
 インターネットを通じたデジタル情報に時間消費され,週刊誌や新聞が読まれなくなってしまっていることは過渡的な現象ではないか。お金を払い,信頼に足るウラの取れたやや長めの文章を読みたいという需要はあるし,取材し校正を経た記事をつくることにコストや人手はかかることは社会的に合意されただろう。ユーザー生成コンテンツ(User Generated Content(UGC)),消費者生成メディア(Consumer Generated Media、CGM)は限定的だった。この先,紙の本での読書と画面を通じた読書は,当分,両立するだろうし,デタラメな運営の図書館はテコ入れされることになる一方,デジタル図書の貸し出しも普及するだろう。
 こうした通史としての「読書」を省みる良書である。これと対になる「作文」の通史があってもいいのだろうと思う。これだけみんなが書き散らす時代なのだ。期待したい。


読書と日本人 (岩波新書)

読書と日本人 (岩波新書)

読書感想文「なぜ、この人と話をすると楽になるのか」吉田尚記 (著)

 小学校高学年の教科書に採用すべきでは無いだろうか。もちろん,中高生や大学生にとっても。
 天然でコミュニケーションに長けた方はいる。だが,人との交わりや社会や世間の大勢の中で泳ぎ,息をする,まさに生きることの難しさの理由を,たまたま,その人が生来,持ち得た性格や能力に還元してしまうことが本当にいいことなのか。むき出しの「自分」で生きられないとわかっていても,閉じ籠もったり,偽ったり,我慢したりして,デイタイムに「自分」を押し殺しさえすれば,一人時間に自分を全力で放つことができるーそんなハイ・コンテクストな面倒な世の中で生きる術としてのコミュニケーションを,教えてもらえなくていいのだろうか?
 吉田は「コミュ障のメンドくさいオタク」ながらも放送局アナウンサー,ラジオパーソナリティとして活躍している。そうした「ツッコマレどころのある自分」ゆえに,ズゥーッと考えてきたコミュニケーションの正体とそのスキルを,この本で並べて見せた。ラジオパーソナリティというコミュニケーションを売る商売の最前線の現場にいるからこそ信頼度も高い。
 実践を要するもののコミュニケーションは性格でも人柄でも無い,ただのスキルだ。だとするならば,教育で身に付けさせるべきものだろう。この本は,多くの人を救うことになると思うが。