「仕事」と言えるものと「生業」


 以下のブログエントリーを読んで,思い出したことなど。

 日本の場合、何もかもが「プロ」の世界です。「セミプロ」も存在しますが、それはあくまで過程であって、いずれは一つの道に絞ることを迫られます。サラリーマンとして生きることを決めたら純粋なサラリーマンとして、ドライバーとして生きることを決めたら純粋なドライバーとして、何か一つの「プロ」として生きなければなりません。昼間は会社員、夕方からは(自称)ミュージシャン、午前中はフリーター、午後からはサッカー選手、昼間は派遣社員、夕方からは(自称)文学者、こういう生き方は一時的には許されても、それはあくまで過渡的なものとして扱われ、続けることを許されない、いずれは「定職」に就くことを迫られるのです。


非国民通信 構造改革を考える

 誰もが自分の好きなことで収入を得ることは出来ないかもしれませんが、誰もが自分の好きなことを続けられる社会は不可能ではないはずです。今までは収入を得るための仕事が全てであり、それが人間を規定していましたが、収入のための仕事とは別の仕事、副業や闇労働の範囲を広げることで、もっと別の肩書きを見つけることは出来ないでしょうか。


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 今の日本の息苦しさの根源はここではないか。ちょっと前に言われた「閉塞感」の言葉も。例えば,以下の「Third Place」が求められているがなかなか無かったり,つくり出せたりしなかったり,

“Third Place”とは、西フロリダ大学社会学者、オルデンバーグが提唱した概念で、上記の“The Cheers Factor”の場ともなるものである。

すなわち、“First Place”が、家族がコミュニケートする場所、“Second Place”が、仕事仲間や勉強仲間がコミュニケートする職場・学校であり、これら両者が家族や仲間内という閉じられた場であるのに対し、“Third Place”は、不特定多数の人同士が出会い、集う、誰に対しても開かれた場で、特に都市で生活するためには、社会の中での精神のバランスを保つ上で必要といえる。

かつて江戸時代の日本では、浮世風呂浮世床のような町民が自由に話し、くつろげる社交場が賑わった。17世紀のフランスのサロンは、ジャンルを超えた自由な思考や出会いの場であり、楽しみを共有しながら、相互に交流できる集まりであった。サロンの本質は、「会話」であり、会話を通じて、人を楽しませ、自分も楽しむことに最大の目的がある。そこから新しい価値が生まれ、さらに、ある種のマーケットが生まれてくる。


「街」の魅力を構成する6つの要素と“Third Place”について

また,以下の広岡守穂さん言われる「仕事B」のようなものを自分の中に確立していくということが難しかったり,

 仕事A、仕事Bの考え方も面白い話しでした。会社などに時間を預けて生活の糧としてする従来の仕事を「仕事A」とし、講演や自己実現などを「仕事B」とし、Aの時間を短くして、Bの時間を担保できるような生き方をしたらどうか。


シンポジウム「次世代育成支援対策を考える」


この他にも,トフラーの「第三の職業」,パットナムの「Social Capital(社会関係資本)」と言われるものだったり。こうした「飯の種」以外のつながりが生活にあるのか,そうした場での役割りがあるのか,ということが自分の暮らしの「張り」だったり生きがいだったりするわけで,やはり,大切なことなのだ。

 言わずもがなではあるが。