子どもの終わりと大人であるだけの始まり


 吉本ばなな「不倫と南米」を読んだ。ポロポロと作中人物が死んでいく(死なせていく)のは,吉本ばなならしいな,と思いながら読み進めた。

 前からよく思った。こんな会話を私としているようでは,夫婦は何も話すことがないのではないだろうか? と。しかし,目に見えないことを想像するのはいやなので,いつも考えないようにしていた。


p.21〜22 『電話』 「不倫と南米」 吉本ばなな


この短編集の第1話は書名どおりに「不倫と南米」だ。南米に取材旅行に来た主人公が不倫相手の彼氏との会話を述懐してのセリフだ。その彼氏とは,

全員が忙しかったからこそ波風があまり立たずに成り立っている生活だった。都会でしかありえないばかな設定だった。大人のようで実はまだ全員が子供という,よくある話しだった。
 現代人は多くの人に会いすぎるから,恋愛をするなというほうがむつかしい。(略)環境のせいにしているが,その環境がこういう恋愛を成り立たせている限り,責任は環境にもあるのだろう,と思っていた。そのうち,なにか抜き差しならないことが起こり……(略),外的な力が加わって事態は動くのだろう,と思っていた。まだ若くて子供じみているというのが,なにか外的な力で,本物の人生の重みに多少は変わらざるをえなくなる瞬間が来るだろうと思っていた。子供じみているのを恥じているのではなく,成長の瞬間を逃したくないだけだった。その時の自分の考え,いかに受け止めるのかに信頼を置き,ゆだねようと思っていた。とくに現代では,永遠に続かないのは恋愛も結婚も変わりない。


p.22〜23 『電話』 「不倫と南米」 吉本ばなな


「外的な力」が加わる先はどこだったか。そして,主人公も読者も両方とも驚きの展開を見せる。この辺りの物語を片づける筆力は吉本ばななならでは。だ。
 ところで,ここで吉本がいう「子供」とはなんだろう。波風を直接受け,人生の重さを感じ,自ら選びとる存在としての大人と対比した存在だ。別な言い方をすれば,フワフワと地に足の着いていない存在ともいえるではないか。こうして吉本は突くのだ。あなたの中の子供とその量を。子供じみてやしないか,と。

「この感じは,きっと,今,お父さんが外にいる気持ちと似ていると思うの。そういうところがお互いにひかれ合ったのかもしれない,と思うと,たまらなくなるの。お互いのたまらなくつらいところで,向き合っているような気がしてくるのね。そうすると,ふだん積み上げて来た明るいものや,地面に足の着いたものがみんな幻想に思えてきて,ずっと箱の中にいたような気がする。好きだから,大切だから,箱の中に入れられてしまっているような気がする。完璧なお父さんになるのがこわいっていう心が,お父さんの中になぜあるのか? いや,誰の中にもあると思う。それがこわいの。」


p.75 『小さな闇』 「不倫と南米」 吉本ばなな


 第3話は母娘の話しだ。母の特異な人生を娘である主人公が知ることで父に秘密の「闇」を知る。この母の独白の「箱」とはイメージではなく実在していたのだ。そうしたものがやがて自分をも襲うのだろうか,と主人公は考える…。

そうか,この人たちのお母さんときっと私はどこかが似ているんだわ。そう思うと,目の前の深いしわが刻まれたこのおばあさんの,子供の頃の顔を見たような気がした。古びた服の紫色も,丸くなった靴の先も,大きな布のかばんも,愛らしく思えてきた。(略)お金が惜しいだけではなくて,もう他に家族がいないから,自分をいちばんに思ってくれる人がいなくなるのがこわかったのだろう。私はこの人たちの子供でもあり,親でもあるのだと思った。この人たちが人生に置いてきてしまった何かをこれからも生活の中でわかちあっていくのだと思った。


p.99〜100 『プラタナス』 「不倫と南米」 吉本ばなな


この話しは少し明るい。それは主人公が子供(というポジション)である自分と,夫とその姉を慈しむ存在の自分とを発見することで先が開けて物語が終わるからだ。


 私が気になって抜き出したこれらの部分とは,自分の中の隙間や欠落を埋めるべく注ぎ込む愛情を求める存在として「子供」と,隙間や欠落を抱え,それとともに生きることを選択し決意した「大人」のコントラストを私に感じさせる。
 とうとう,こんなことを思ってしまったり,(勝手に)わかってしまったり,と,もう大人であることしか道がないのだ。そういうことなんだな,と思うのだ。


不倫と南米

不倫と南米