茶室の空間とは,その主客が話しをするためのもの


 司馬遼太郎の名著「国盗り物語」。今回,初めて手に取ったみたのだが,そこに茶道に関する部分があった。

「ここでは格式ばって物語りをしにくい。いま茶亭に釜をかけておりますから,庄九郎殿,それへ参りましょう」
 といった。
 この時代,貴族が茶室を好んだのは,正式の座では,室町の武家礼法がじゃまをして機微のはなしができにくいからである。茶室に入れば,階級もそれにともなう作法も無用とされ,天地ただ主客があるだけというふしぎな場がうまれる。
 庄九郎のこの時代,茶道が社交の場として流行したのは,室町幕府がつくった小うるさい小笠原礼法の反動のようなものだ。


p.214〜215 「国盗り物語」第一巻 司馬遼太郎


庄九郎とは,斎藤道三。ちょうど,道三が岐阜に入ったばかりのシーンに出てくる記述だ。
 礼,いわば形式が過ぎれば,話しもできない。そこで,話しをするツールとしての茶室,茶道が,侘び寂びとして求められたというパラドクス(!)。余計なものを余計なものとしてはぎ取ったあと,この場合,茶を入れる/入れられるということをしながら話しをする。いや,話しをするために,茶というツールをつかう。
 それはちょうど,夏目漱石の登場人物同士が,散歩しながら会話をすることにも似た関係と言えまいか。


国盗り物語〈1〉斎藤道三〈前編〉 (新潮文庫)

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