母校に募金してみてわかった3つのこと。


 もう3日前になるが,3月12日,毎年,母校から送られてくる募金趣意書が,ずっと気になっていたため,募金した。紙幣1枚分。
 母校の募金は,2006年に始まり,1)教育とキャリア支援,2)専門職大学院支援,3)付属中高教育支援,4)研究所支援,5)スポーツ支援,6)奨学金の6使途に,今年,東日本大震災被災学生支援が7番目に加わり,この震災支援を使途に選んだ。
 金融機関の窓口で,払込取扱票を渡し募金終了。あっさりしたものだ。募金そのものが,ズシリとくるかと思ったが,清々しい気分,と言うか,気分が軽くなった。今回の募金という行為,まったく,私の個人的な自由意思にもとづくものだが,これまでに,過去,私自身の選択による寄付は初めてだと思う。例えば,職場を通じて,町内会を通じて,街頭で頭を下げられて,コンビニの支払時にやたらと目に入って主張してくる透明募金箱などなど,その場の空気感に押されてて,募金させられてしまうことは多い。今回,あえて,寄付にトライしてみた。ご大層な身分ではないし,ご大層な額ではないのだが,寄付する側にまわってみようと思ったのだ。
 寄付してみて,わかったのが,1)出してみたお金にはそれほどの執着はわかない。2)寄付という「えこひいき」をすること,3)「寄付者」という立場からの目線を得るということ,の3点だ。
 一つ目の執着だが,私自身,もっと「あ〜,あんなお金をだすくらいなら」などと後から悔やむこともあるのではないか,と半ば想像していた。ところが,何にも思わない。でも,「いいことをしたから」とも思わない。やれる範囲のことだけをした。「いい」かどうかなんて,正直,わからない。とりあえず,母校を信用し「よかれ」と思っただけなのだ。決算をみたいだとか,事務処理が適切かだとか,運営は効率的かなどとも思わない。支える1人になっただけで,もう満足である。出て行ったお金はそれまでよ,私は満足を買いました,てな気分。
 二つ目は,ちょっと考えさせられる。寄付の相手方の選択には,公平公正さは無い。私にとっての母校,それだけ。全国の数ある大学の中なら,その社会的な貢献度,研究の有益性,学生の高い意欲など,まったく考慮無し。ご縁のみ。本当は,もっと,お金を必要としている人,お金を必要としている大学はあるのかもしれない。いや,きっと,あるだろう。でも,私はそれを選ばなかった。選ばない,ということを選択した。そう,私は「えこひいき」をしたのだ。「えこひいき」は,いけないことだ,と多くの日本人は思い,そこに価値感を置いているだろう。だが,「えこひいき」をしないために,確実な透明性と説明責任の行使が必要になる。行政や公権力の行使においては,必須条件だ。だが,民間の公益活動において,そのメンバー内の信用と賛意に基づく場合,委ねた側として「えこひいき」が選択可能になる。つまり,「えこひいき」な選択をする主体としての自分を容認することになる。これまで,「えこひいき」をしない,すなわち,公平さ平等さを重んじたばかりに,選択の責任を他者(たいていは御上,役所)に預けたままな社会だったのだ。このことに気づかされた。
 三つ目は,寄付してしまった結果を受け入れるということだ。募金申込書には,「寄付者芳名録」への掲載希望が問われる。私は,希望した。もちろん,こっぱずかしい。しかも,わずかな額である。偉そうな顔をせんでも,とも思う。だが,芳名録に載って晒される立場を引き受けてみようと思ったのだ。私自身,初めてでわからないことなのだが,寄付者の立場というのを体感してみようと思う。
 学校法人への寄付金は,特定公益増進法人に対する寄付として税制上の優遇措置を受け,所得の控除対象になる。次の確定申告が楽しみだし,国や地方の御上にお任せになってしまう税による無責任から,信用による寄付へと,私自身が還付を通じて実感してみようとも思う。