離島を成り立たせる資本再生産と人口

 佐野眞一著「旅する巨人」について書いた昨日のエントリーの続き。

 現場を歩くこととは何か。そこで,見えることや会った人の話に関心が向きがちだが,そんなわかりやすいことが全てではない。その土地で,人が暮らしてきたこととは何なのか。その経済社会を成り立たせる仕組みに目が行かないようでは,その場所をなぞったにすぎない。
 旅に生きた宮本常一の仕事を知ると,そうつくづく思う。

 以下,2つ引用する。太字は私。

 宮本の仕事のうち,いつも問題にされるのは,この離島振興法への関わりと,後述する日本観光文化研究所への関わりである。
 宮本は初期の文章の中で,島を正しく資本主義経済機構のなかに組み入れなければ島の経済を自立させるとこはできないといい,日本じゅうの島と本土を橋で結びたい,とまでいいきっている。
 これは離島に自主独立のコミューンを夢想する者たちからすれば暴論と映ったのは当然のことだった。
 離島を考える宮本の根底には,現在は現在は遅れているとみなされている島々も,近代にはいって陸上交通網が整備されるまでは海上交通の要衝として中央とつながり,高い文化をもっていたという歴史的認識があった。
 その思いが,離島救済への素朴かつ過剰な使命感となり,宮本の文章を,平易でいて,それで深い味わいのある他の著作とは違った,きわめて生硬な印象を残す文章にさせている。
 しかし,宮本の文章を仔細に読めば,田中角栄ばりに,島に港をつくり橋をかけることが望まれるのではなく,島の生産基盤を内部からつくっていくことこそが肝要だといっていることがわかる。それは宮本が絶えず主張してきた「離島振興法ができたから島がよくなるのではない。島をよくしようとするとき離島振興法が生きてくる」ということばに端的に示されている。
(略)
 宮本の離島振興に関する文章を時系列的に追っていくと,次第次第に苦しさがましていることがはっきりと読みとれる。かつて高度経済成長を日本の島々の明るい未来像に重ねて明朗に語った宮本は,昭和四十年に発表した文章の中で,つぎのように書かなければならなかった。(『日本の離島』<第二集>あとがき)
<昭和二十八年離島振興法という法律ができて,十二年になり,二十八年に七億ほどの離島予算が昭和四十年には九十億円をこえるにいたったのだから,島民にとって結構なことのように思えるが,私には多くの危惧の念がある。
 その一つはどうも無駄使いが多すぎるように思えるのである。田舎では貧乏なものが多少金を持つと,何はさておいても家の改築をはじめる。そして外見のよさをきそう。離島振興の実情を見ていると,それに似た現象がきわめて多い。家だけはりっぱになっているが生産の方は大してのびていないといった姿である。もっと再生産のための設備投資に本気になれないものか。これではいつまでたっても島が本質的な力で本土に追いつく日はない。
 資本主義的な思想のおそろしさというものを近頃しみじみ思う。しかもそれが國民全体の一つの思想になりつつあるのではなかろうか>
 宮本は,しだいにふくれあがった離島振興予算が,補助金行政と政治家の一票獲得の餌にとってかわられてしまった現実に,離島振興法の成立に多少かかわった自分としては,しばしば強い憤りを覚えるとも述べている。


p.274〜276 「旅する巨人」佐野眞一

 宮本が全国離島振興協議会の事務局長をつとめている頃,谷川雁が宮本をたずねていったことがあった。谷川が無人島化する吐噶喇列島臥蛇島に行く直前のことだった。
 谷川が,臥蛇島に行きたいがその島のことはよく知らない。そもそも離島というものは一体何なのか,それは本土というものに対して,同情されるべきお荷物でしかありえないのか,お荷物でない積極的な意味があるとすれば,それはどんな意味なのか,と性急にたずねると,宮本は一瞬驚いた顔をし,それから微笑みをくずさないまま目をとじ,眉を少しずつ吊りあげながら,ぽつりぽつりと話しはじめた。
「離島が百戸以上の場合にはかろうじて発展します。しかし五十戸以下ではどうにもならない」
 谷川が,まるで円空仏のような顔になった宮本に,なんだか逆さまのような気もします,資源によって人口が左右されるのではありませんか,と問い返すと,宮本は張りのある声で,「人間は条件をつくりますよ」と答えた。
「たとえばその島に動力船が必要だとします。現在の補助金制度は半額か三分の一は住民負担と組みあわされています。自己負担がなければ何ひとつ始まりません。人間の最低生存条件は一定数の仲間なのです」
「それではその必要数をどうしても得られない島は滅びるか,移住するしかないとおっしゃるのですか」

 と,谷川がなおも食いさがると,宮本は,
「そうです。移住した方がましだと考えられないこともありません」
 といって,臥蛇十八戸,諏訪之瀬十二戸,平三十四戸,悪石三十六戸,小宝十八戸と,現在の島の個数を正確に並べ,それらの島がいまおかれた資源と,人口の関係を淡々と説明しはじめた。
 谷川は,その意外な唯物論的な考えに軽い衝撃を受けた。そこには離島に日本社会の祖型を探ろうとするロマンチックなまなざしもなければ,離島から一つの理念を抽象しようとする観念的な姿勢もなかった。
 谷川は,宮本に必ず冠せられる?経世済民?の民俗学者という言葉を思い出しながら,いま目の前で話している人物は,?経世?と?済民?はちがう,世界一円を経営することなどどうでもよい,しかし民衆が自分で自分を救済する努力に背を向けるわけにはいかない,?済民?の志を裏切るわけにはいかない,といっているような気がしてならなかった。
 宮本の?済民?活動は離島にとどまらなかった。昭和二十九年,宮本は石黒忠篤を介して知遇を得た元東京営林局長の平野勝二を中心に結成された林業金融調査会にも参加し,日本全国約二百カ所の山村を調査して回った。この頃,宮本は若い所員に向かってよくいった。
「樹をみろ,いかに大きな幹であっても,枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて,幹を論じてはいけない。その枝葉のなかに大切なものがある。学問や研究はあくまで民衆や庶民の生活を土台に築き上げるものだ

p.282〜284 「旅する巨人」佐野眞一

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三

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