ホンダ・シビックと市民社会,そしてグローバル

 今年,読んだ本の話は書いた。このブログではクルマのことも書いてたっけな,と思いだしたんで今年,印象に残ったクルマについて書いておこう。

 いま,自動車評論家の界隈では,日本カー・オブ・ザ・イヤーボルボXC60が選ばれたことが,その得点配分の是非や「今年の日本車」を象徴する存在の見当たらなさとして,話題になっているわけだが,選出方法は見直せばいいし,日本に限定せず東アジアで見れば,魅力的な新車はたくさん出てるんだから,バラエティが乏しくなった国産車(だんだん,この定義も難しくなってきた)だけを見ているのもどうか,とも思う。
 そんな一年を振り返ると,私には次のニュースが衝撃だった。


【ホンダ シビック 新型】受注1万2000台で タイプR の納車は2018年夏に | レスポンス(Response.jp)


子どもじみた「いかつさ」が印象的で,サイズもゆるゆると大きなシビックが,売れているのか,という衝撃である。ホンダ・ディーラーも同様だったのでは無かろうか。きっと,ジェイドのような結果になってしまうんじゃないか,と予想した人も多かったことだろう。

 シビックとは,そもそもが私にとって気になるクルマであった。シビックを意識したのは,小学校の低学年の頃だ。昭和50年代が始まり,つまり1970年代の後半,母方の叔父の家のクルマがシビックだった。「クルマとは…」にとらわれない佇まいのハッチバックで,何より,FF車というのはこんなにも室内空間が違うのか,と驚いた。当時の実家には,紺色のカローラがあり,それはFR車だった。その後も叔父の家のクルマはシビックだった。当時としては,結婚が遅く,子どもが一人の小さな家族のクルマだった。

 80年代の半ばを過ぎた頃の「ワンダー・シビック」も印象的だった。サッチモの「ワンダフル・ワールド」に乗せた巧みなCMで,虚飾を排した大胆な造形が,ホンダ・デザインを印象づけた。この3ドアハッチの成功が,後のシビックやホンダ・デザインを縛り付けることになったのだろう。



ホンダ ワンダー・シビック 第1弾CM(1983年) ワンダーシビック誕生


 自分で所有してみたい,と思ったシビックがある。8代目のセダン,それもハイブリッドの。おっさん臭いらしいのだが,私はこのデザインが好きだった。これ見よがしじゃないハイブリッド・カーってイイナ,と思ったのだ。

 このシビックの経過(凋落?)については,次の記事に詳しい。

シビックは05年の8代目以降、国内ではまったく売れなくなり、ほぼ「いないも同然」だった。つまり、実質12年ぶりの復帰だ。この間に、シビックというクルマに対するイメージそのものが曖昧になった。子供だって12年も会わなきゃ別人になるっしょ?

新型「ホンダ・シビック」に試乗。「タイプR」ではない、“素”のモデルの実力を探った。 - webCG

正直、『シビック』を国内に再投入するのは疑問だった。すでにコンパクトカーは『フィット』が定着して人気を得ているし、国内Cセグメント市場に参入しても支持を得られる可能性は少ないと考えていた。

【ホンダ シビック 試乗】ワンダーシビックの時代を知る大人にも…丸山誠 | レスポンス(Response.jp)

新型シビックの受注が、予想に反して好調だという。これは大どんでん返しというべきかもしれない。なにせ、これほど売れない売れないと言われつつ発表を迎えたモデルも珍しいから。売れないと予想された理由は、「あまりにも大きすぎてシビックじゃない」「イギリスからの逆輸入で値段が高くなる」といったあたりだ。

新型「ホンダ・シビック」に試乗。「タイプR」ではない、“素”のモデルの実力を探った。 - webCG


決して裕福ではなくとも,健全な良き市民社会がめざそうとする流れが見失われた頃,シビックも存在感を失った。市民的であろうとすることよりも,個の欲望の最大化を謳う社会にシビックの居場所が無くなった,ということなのだろう。「失われた20年」に合わせたクルマは,「フィット」だった。そして今,移動のみの道具としてコモディティ化が進み,ペットネームがついたクルマではなく「N-Box」という無機質な名前のクルマが,もっとも売れるクルマとなる日本社会となった。

 こうして,シビック=市民的なるものを欠いた日本社会の一方で,ホンダ・シビックは,世界各国で売れていた。アメリカで,ヨーロッパで,東南アジアで。日本が一人勝手にデフレに陥っている中,世界ではシビックが売れていた。モデルチェンジを重ね,シビック像も塗り替えながら,違う姿となってもシビックなるものを具現化して見せていた。そして,そのカタチは,日本人にとっては,少しエグいものにもなっていた。でも,これが今,世界で通じているシビックなんだぜ,と言われているようでもあった。

 そんなシビックが,国内市場に帰ってきた。目を覚ませよ,と言っているかの如くである。もう,デフレは,終わってるんだろう。21世紀の安全,環境,快適などの性能の基準や標準とは,こういうことだろう,だから,このサイズだし,このパフォーマンスだ,と。そして,責任ある個としての存在を示すことが,より一層,流動化する社会にあって市民社会を成り立たせる要素であるから故に,この外観を持ったのだ,と。

 それは,僕らの市民社会像と,世界のシビック=市民的なるものが,ホンダ・シビックが退いている間にずいぶんとかけ離れてしまったということだろう。世界が豊かになることに僕らは置いていかれ,小さな家族の車という前提は世界中で,よりパーソナルな存在の移動手段へと世界共通に変わっていくことに対し,日本はクルマにノスタルジーを投影してしまうために,変えられず,変われずにいたのだ。そのため,国内マーケットからシビックが退場したのだ。

 いま,世界のシビック=市民的なるものとして,ホンダ・シビックは日本でも予想外の受け入れられ方をしている。iPhoneを手にし,NetFlixを眺め,Amazonでモノを買い,Facebookで互いにつながるのは,日本も世界も等しく同じである。そうして社会が均質化していく中で,支持されるクルマが同じであることは不思議なことではない。

 今年,日本デビューしたホンダ・シビックは,世界からシビック=市民的なるものを日本に照らしている存在だ。そして,このシビックに抱いた違和感とは,シビックがいなかった時間含め,世界と日本との意識のズレであり,滞っていたものごとが存在しているのだ,と気づかせてくれるのだ。

シビック』自身が迷走し、新しい価値を掴み損ねているのと同時に、自動車全般が提供できる価値と社会が期待するものとの間に少しづつ乖離が生じて来たことを図らずも体現していたのではないか。いま思えば、そう思えてくる。
(略)
 ホンダは他の日本の自動車メーカーに較べて、クルマのこれからの大きな変化を認識していることを隠していない。『シビック』のCMで庵野秀明を起用し、「Go Vantage Point」と言ったり、軽自動車のCMで「ママの忙しい日常をサポートする」といったようなコピーを全面に押し出したりしているのも、その現われではないか。

新しい価値を創造するホンダの4代目『シビック』の進化(2017.12.24)|@DIME アットダイム


自動車評論家の金子浩久も言っている。自動車におけるシビックなるものとは何か?これが悩ましく,考えさせられた年だった。



Honda CIVIC×GIANT CONTEND「Go, Vantage Point.」 60秒