読書感想文「5人の落語家が語る ザ・前座修業」稲田 和浩 (著),守田 梢路 (著)

 前座修行とは何か。一人前の人間としての型(カタ)を手に入れるための時間と経験である。
 この人間としての型(カタ)が無くちゃあ,ひと前に出らんない。それ相応の挨拶ができること,世の中には理不尽さがあるということを知ること,見てくれも大事だということ,義理や恩は大事にしなくちゃいけないことなど,これらがわかれば人間として往来を歩くことができる。だから,前座時代の長さは人によって違う。
 もちろん,要領のいい奴はトントンと先に進むことができる。一人前の人間としての型(カタ)だから,まぁ,それでもイイ。だけど,そこから先,己をどう磨くか,磨いた先に自分の看板でどう生きるか。その射程を前座時代に自分に問いかけた人は強い。
 商家の丁稚の修行も同様だろうし,寺の小僧さんもそうだろう。やがてひと前に立つのだ。修行時代には気づかないかも知れないが,客や同業者の方が無理難題,出鱈目,誤魔化し,適当,インチキが横行している。そこに真っ当さを持って線を引けるようになること,それが修行時代だ。師匠や旦那,和尚の理不尽さより,世間の方がよほど納得がいかない。
 ひと前に出ない職人や,人に使われるだけの生き方もあるだろう。だが,学校の勉強が全てになってしまうと,(学校の)勉強ばっかりしてるとバカになるぞ,ということだ。世間には,情けない,辛い,恥ずかしい,みっともない,悔しいことが溢れている。
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