読書感想文「向田邦子の本棚」向田邦子 (著)

 意思と才能がヒトのかたちをして立っている。いつも向田邦子の写真を見ると思う。黒目の力が強いのだ。そんな彼女の文章が愛されるのは,隅々まで神経が通っているからだ。揺るがせにせず,その言葉の置かれる場所やタイミングに意味と意図がある。そのことがビンビンと伝わるから愛読者にはたまらないのだ。だが,文字起こしされただけの対談となると、紙面がくすむ。相槌と間がわからないので,彼女の思考のシャープさが鈍ってみえるし,案外と寡黙だったりする。商品としての作品とリアルの彼女の違いではあるのだろう。
 没後の向田にまつわるものを集めた一冊である本書は,そんな彼女のファンブックだ。あのカッコいい向田さんの本棚に並ぶ本たちは,きっと素敵に違いない。そんな編集意図なのだ。紹介されるのは,確かに身の回りに置くものとして意図や意味があるものばかりだ。向田邦子をデザインしていると言ってもいい。その一方で,向田邦子のフォロワーたちはどう生きたのだろう。どう世の中をアップデートしたのだろう。どれほど,カッコいい姉さんたちが増えただろう。
 向田は1929年生まれ。あと7年で生誕100年。どんな企画が催され,それは,どれほど時代に問いかけてくるのだろう。


読書感想文「新時代LX―持続可能な地域の未来を切り拓く」受田浩之 (著)

 何じゃコリャ。ドリーム・ストーリーじゃん。
 まったく,不勉強にて失礼しました。知らなかったです。高知の成功物語。実は,高知が伸びている。バケたのだ。しかも偶然じゃない。戦略的に伸ばしたのだ。いやー,スゴい。
 何がって,ボトムアップの県民運動をトップの交代とともにスタートし,結果,成し遂げたって,そんな魔法の話しを信じられるだろうか。冷静な分析力に裏付けられた戦略と目標を,熱いハートで県民に輪を広げたのだ。
 まず,作ったのは「高知県産業振興計画」。地味でしょ?どこにでもありそうでしょ?お役所が「その計画を作る」ことだけを目的に,県民の参加はアリバイ作りのために振り回されるだけの魂の入ってない計画って日本中にあるでしょ?違うんだなー。野心的な目標はクリアされ,さらに上方修正されて実行中なのだ。もう信じられなさ過ぎて,気持ち悪いよね。補強型・普及型の企業誘致や人材育成など,産業振興の面からこぼれ落ちちゃうような項目もガシガシやっている。いやはや,たじろぐよ。
 スーパーマンなトップばかりじゃないのは当たり前だが,課題の設定と地道な努力の必要さはわかるわけだ,これを読めばね。高知でできていることが,なぜ当地ではできないの?ねぇ,何で?ほらね,逃げ道は断たれたのだ。


読書感想文「ぼくらの戦争なんだぜ」高橋源一郎 (著)

 戦争(がある世の中)の文学である。
 毎年,ひとは生まれる。なので,平和な年も戦争の年も子どもは生まれる。平和な年も戦争の年も全ての学年生まれの子どもがいる。なので,後に戦争を語るのは,当時,「多感な少年少女時代を過ごした者」ばかりではない。多感な少年少女時代が過ぎた人だったり,まだ,背伸びしてもその年代ではなかった人たちもいる。だから,戦争を語る視点とは,一様であるはずがない。悲しかったり辛かったりする者だけでなく,嬉しかったり憧れたりする者もいたのだ。
 戦争とは,無分別なイキったバカに帰結してしまうものだ。その渦中にいると思うと,つい大きなことを語ってしまう。太字の大文字の言葉で主義を主張するし,威勢のいいデカいことを言うことだ。ただ,もっと前から,小競り合いや身近な暴力はあったのだ。欺瞞やデマカセや不正があったのだ。それを放ったらかしにして,さもさも,ある日,大戦争が起きましたよ,と言う。ホイッスルが鳴って整然と始まるかよ。社会は連続しているし,当たり前に語る主体の立場もそれぞれなのだ。
 だからこそ,冷静に平熱でいることだ。焦らず慌てず,よおく見ることだ。小さなできることをやることだ。無理や無茶をしたり,おかしなことに巻き込まれないようにすることだ。捨て鉢にならず,日々の暮らし大切にすることだ。
 それはどんな状況になろうとも。


読書感想文「財布は踊る」原田 ひ香 (著)

 隣近所のダークネスである。
 では,財布とは何か。本来はお金を入れる袋だ。だから,ATMの横の壁に挿さっている金融機関の封筒だっていいはずで,借金を返すときにその金融機関の封筒が意味ありげに使われたりするように,財布の意味とはお金が入っている(であろう)袋だ。だから,財布はお金が入れてある前提で,お金の象徴になる。
 最低限の金で生きるには,知恵と才覚がいる。無知と無関心ではいられないのだ。食事の摂り方だって,献立だって,日用品の買い物だって,世の中を知らなければ,お金についての危険を避けようとしなければ,自分の身に不運と不幸がやってきてしまう。気づいたときには健康を害し,貧窮から抜け出せなくなってしまうことだってある。
 お金にとらわれぬよう,お金に人生を掠め取られぬよう自分自身を鼓舞することだ。欲に塗れてしまうのは人間の業(ごう)だし,お金は大事だけども,お金とは一定の距離を持つことも大事なのだ。そして,問われるのは,お金が入っていない財布の持つ空虚さが意味するのは何なのかということだ。
 そのためにこの本を読んだ後,「ナニワ金融道」,「闇金ウシジマくん」,「クロサギ」を読み直していいはずだ。


読書感想文「吉田茂」原 彬久 (著)

 ザ・主人公である。
 自分の職場に白馬で出勤し馬上から上司に挨拶しちゃうのである(本来,それは挨拶とは言わない)。ザ・生意気である。実家が太すぎるのだ。気位の高い養母から「若さま」と呼ばれちゃう。そりゃあ,もう普通には育たないよ。まして,最上位の学歴ロンダリングである。慶應義塾学習院→東大なのだ。そして,28歳で外務省に入省するのだが,ザ・エリートこの上ない。身を粉にして苦難の末,勉学に励んじゃうような立身出世の人じゃない。ハナっから違うのだ。こういう人を銀の匙をくわえて生まれてきた人というのだ。
 大人になってからも大概である。せっかく,本人のためを思って斡旋してくれた人事案件を気分で断る。しかも,一度や二度じゃない。後に,身の振り方を嫁の親父に頼むのだが,なんたって,大久保利通の息子・牧野伸顕なんだもん,天皇にも近い。英米派であり反戦和平派であり反共派の独立自尊の人として,国際政治の中で国の舵取りの方向性を見定めたが,徒党を組んで親分として振る舞う内輪の「政治」が得手な気質ではなかった。
 吉田が政権を降りて80年近くなるが,我々はまだ,この主人公の描いた世界の中にいる。


読書感想文「学校に入り込むニセ科学」左巻 健男 (著)

 ときに科学はワクワクしないし,エモくない。実証・検証の繰り返しだし,事実を積み重ねていく気の遠くなるような作業だったりする。なので,結果をパッと見せてくれるような画期的な手品のような魔法のような何かに人は飛びつく。だって,楽ちんだし,すごーい!って言えるし,誰々さんも言ってるし,テレビでもネットでも見たし。
 ニセ科学が入り込むのはなぜか。インチキやテケトーやトンデモが蔓延るのはなぜか。科学リテラシーが低いからか。違うな。疑うことを知らない善人だからか。それもどうかな。いま,なんか知らんがウケのいいこと,話題になっていることをやって賑やかしになれば,それでイイと考えている発意者,意思決定者が,何となく雰囲気で決めているからだろう。
 何か,ほらアレ,テレビとか動画で見たんだけど,凄そうじゃん。何かアレだけど,熱心な人もいて,人も集められそうじゃない。催しとしてうまくいくんじゃない。と,一過性のその場さえどうにかなればイイという,その雰囲気で決まる現場にニセ科学は付け入るのだ。
 科学はときに退屈である。だが,まず大人が真剣にその基本原理と向き合うべきなのだ。そして,手品や魔法を批判的に見る「科学する心」を育てることは,焦ってプログラミング教育をさせることより大事だったりする。



読書感想文「オカルト化する日本の教育」原田 実 (著)

 あなたの「何か気持ちわりーなー」は大体あってる。その種明かし本である。
 真顔でもっともらしいことを言っていたらウケちゃったのである。いや,そんなに真剣に受け取られても,と思ったに違いない。だが,先生とよばれ,権威になっていくと引っ込みがつかなくなる。エンタメが本当になってしまったのだ。まして,教育現場に浸透していくなんて思わなかった。アカデミズムとは別に,せいぜい,企業研修などでウケりゃ満足だったのが,なんと教科書にまで採用されてしまった。それが「江戸しぐさ」だ。やれやれ。商売でやってんだから,そんなに裏取りすんなよーが本音だったのだ。
 親学はもっと深刻だ。親になる資格,親になるための学びが発端だが,じゃあ,すでに親になった人とは,言わば,ライセンスを得た者であり,学んだ人であることになる。なので,敬ってくれよ,親なんだから。慕ってくれよ,親なんだから。である。個人として,その人の魅力や力量ゆえではない。親というだけの権威が実体化して独り歩きしている。謙虚さのない放漫さ増長さである。
 事実とは,実証とは,科学とはを考えることだ。学校と教育現場にインチキやデタラメを蔓延らせてはいけない。