読書感想文「人生百年の教養」亀山 郁夫 (著)

 亀山先生73歳の老いて見える人生の風景である。
 新書本なのにスラスラとは読めない。亀山先生が今にして語る人生の告白だったり、悔恨だったりがとにかく語られ,読者は付き合わさせられる。亀山青年の刺さったままの棘や傷がまだまだ癒えることなく,むしろ今になって正視できるようになって,あえて語っているのだ。
 ただ,人生が面白いのは,棘や傷,または回り道や後悔は,伏線回収となって,その何年か後に付き合う相手として登場してくるということだ。避けていたり,忌避していたり,蔑んだりしたモノゴトに向き合うチャレンジは,亀山先生の人生を彩ったし,見方考え方を養うことにもなった。
 本書のキモは,第8章の「老いの作法」だ。これを書きたくて,第一章から七章までの長いイントロがあると言っていい。このキモの章があるからこそ,読者はオチを気にせず長いイントロに付き合うべきだ。老いて手放すことの数々とは,逆を言えば,それまで拳に握り込んだ数々の経過があってこそだ。老いてこその自分とは,若い自分によって生じた因果律だ。亀山先生の今を知るということとは,亀山先生の生い立ちとこれまでの本人の興味関心や行動を理解することで,意味が生じる。
 知恵や教養は,金融や財務といった財貨の世界とは別の次元の価値がある。か細くとも「ものごとの本質とは」「人間とは」を考えそして語ることで,金儲けが全ての,ご立派な新自由主義者グローバル資本主義の風潮に対し,生き様を通して物申している学者の言葉と行動に,耳目を向けるべきだろう。


読書感想文「今さらだけど、ちゃんと知っておきたい「意思決定」」佐藤 耕紀 (著)

 あなたは,選択を迫られたことはあるだろうか。どーするんですか!どーしたらいいんですか!決めてくださいよ!と。
 ビジネスにおける心理学・認知科学大全である本書は,シーナ・アイエンガーの名著「選択の科学」を思い出させる。シーナの来歴への興味も手伝って,世界的なベストセラーになった。人は多すぎる選択肢からは,そもそもの選択する行為すらあきらめてしまう,というのだ。
 では,マネジメントする側として何をどう決定するとよいのか。「自分を含む人間は,間違う」ことを前提にすべきなのだ。何が問題なのかを見誤る。判断に当たっての大小,緩急,頻閑のとらえ方を間違う。モノゴトの軽重,重要度の判断をし損ねる。
 つまり,意思決定は失敗するのだ。では,ケガが少ないのはどれか。危機に陥ってダメージを避けられないとしても,大ケガで済んで命を落とさずに済むのはどちらか。僕らの人生の結果は,しょせん,天運である。努力できる環境や才能だって,たまたま与えられたに過ぎない。地震は発生し,津波はやってくる。だが,逃げる選択をするのはあなただ。運で決まってしまう土台の上で,失敗で失うものをどうやって最小にするか。僕らの「意思決定」が問われているのは,そこだ。


読書感想文「落語の凄さ」橘 蓮二 (著)

 昇太,一之輔,鶴瓶,宮治,志の輔。著者が「人気者」の落語家として選んだインタビュー集だ。この「人気者」というのが厄介だ。世間で知られているところの誰々というのが条件になるからだ。寄席や落語会に年に10回以上通うような人は相当なマニアだ。つまり,巷の大抵の人は,「人気者」の落語すら聞いたことは無いのだ。
 では,これら「人気者」の本質とは何か。「人気者」であることを受け入れた人だ。決して,そのポジションを強引に欲しがったかどうかではなく,条件が整ったなか,引き受けたのだ。結果,覚悟した人たちなのだ。
 本書の中で志の輔師匠へのインタビューが,別格だ。インタビュアーと本人とのやり取りを読んでいるはずが,まるで違う感覚,錯覚に襲われる。それは「立川談志は成仏していない。まだ,現世の落語界にいる。依然として空気として漂っている」と思わせるのだ。もちろん,談志イズムが厳然と存在する,としてだ。そんな成仏していない落語家なんて,まだ,いるだろうか,と考えた。志ん生,可楽,彦六,昭和の名人だけじゃない,志ん朝桂歌丸三遊亭円楽だって5代目も6代目も,区切りがついている。桂米朝だってそうだ。もういない。待てよ。いた。柳家小さんだ。まだ,落語界にいるぞ。それと小三治師匠も,か。その「小さん」主義,小さんの様式,教えが空気としてある。落語家の業(ごう)なのか。それとも残された弟子たちの師匠語りが,まだ,現世にいるぞ,と思わせるのか。志の輔師匠へのインタビューを読みながら,ゾクゾクしたのだ。
 現時点で人間国宝への最右翼は志の輔師であり,二番手は談春師だ。それが実現するとき,まだ,現世に漂う立川談志は「アタシはね,人間国宝を二人つくったんですよ」と師匠・小さんに「あかんべ」をするだろう。


読書感想文「ヘルシンキ 生活の練習」朴 沙羅 (著)

 朴沙羅は,知っている。実は,全ては金(を稼ぐスキル)だ,と。
 生い立ちの複雑さ,文化資本の重要性も含め,彼女の語ることは彼女自身に固有のものだ。だが,これを読む読者はキラキラした「子育てライフ in 北欧」を思い描くだろう。フィンランド社会の中での手続きや制度,隣人を含めた周囲との交渉や契約など,朴沙羅がこなしてきたタスクの数々をスルーして。
 だからこそ,リスク承知のチャレンジだとしても,稼ぐことができる存在としての朴沙羅だからこそ,公平性・公正性・透明性の高いフィンランドの自由な市民社会の空気を享受できているのだ。そのことの問いかけは実は重いし,読者は自分のことはさておき,北欧社会への憧れを口にするだろう。
 日本社会がなぜ変わらないのか,は愚問だ。「自分のことはさてお」いて,世の中の問題を直視することを避け,とりあえず小利口に面倒を避けて,当事者に負担を押し付けながら世間の中で泳ぐ。そうしたライフハックを使いこなし生きることを正解としているんだもん。変わんないよ。小利口なだけの無責任なやる気なしのバカを再生産してはいけない。わかったふうなことを言うだけで何もしない連中の存在が彼我の差だ。当事者性と言ってもいい。
 稼げる朴沙羅が照らした光で,わが国を考える材料だ。


読書感想文「首取物語」西條奈加 (著)

 和風・異世界冒険ファンタジーである。
 読み手の我々の周りを漂う「せつなさ」の正体は何だろうか。本書を読み進める間,ずっと「せつなさ」がまとわりつく。そう,本書に限らず冒険譚とは,実はワクワクが全てではない。せつなさがセットなのだ。冒険のステージごとに次々と別の登場人物があらわれるのはなぜか。そこで,ヒヤヒヤドキドキの不思議に遭遇し,物語が展開するのが冒険モノだとして,そのステージの終いには,出会った者と必ず別れるのが構造として含まれているからだ。そのステージでどれほどの熱過ぎるやり取りがあったとしてもだ。
 そうした冒険ファンタジー特有の構造に加え,別れそのものにへばり付く死の存在だ。本書は,快活な少年という「生」の象徴と「首」という「死」の象徴が物語を進めることからこそ,いっそう,死がまとわりつく「せつない」冒険物語なのだ。
 生きている者,これからも生き続ける者にとって,死とは理不尽そのものだ。それは,単なる不可逆性だけでなく,「生」きることの意味づけが無意味化させられてしまうことでもあるからだ。
 だが,菌や微生物に限らず,日々,膨大な数の生と死がある。生きる意味とともに死ぬ無意味もある。いまの時代,意義づけられてパンパンに膨らんだ「生」とは,果たしてそれでいいのか?所詮,死とはありふれた出来事で,蛇口をひねれば水が出てきたり,スイッチを押せば消灯するようなものではないのか?とも問いかける物語だったりする。


読書感想文「たとえば、葡萄」大島 真寿美 (著)

 ライフ・ウィズ・コロナウィルス・ワールドである。
 日々の繰り返しの中で,人はうだうだしたり,グズグズしたりしながら,毎日が過ぎていく。自分で選んだにせよ,感染症の流行のせいにしろ,ある日,状況の変化がやってきて,別な状況が始まってしまう。とはいうものの,そのリスタートは従来の延長上ではいけないとなると,うだうだしたり,グズグズしたりするモラトリアムの時間となる。
 人生の光とは何か。ミッションをみつけ,そこに打ち込むことに喜びを見出すことだ。スティーブ・ジョブズの有名な「点と線」の話しのように,あれやこれやが急に繋がりだすタイミングがある。世の中とは,世知辛いものだと思っても,また,その時点ではものごとが前に進まなくても,その時,打ち込んだ楔はやがて欠かせないポイントになっていたりする。そのポイント同士がロープで繋がりだすとき,もはや,人智のものとは思えないご縁が発動していたりするのを感じるはずだ。
 人生とは「気持ちのいい人」との出会いであり,その場やそのつながりを,大事に,かつ土台にして進むことだ。そして,登場人物がいう「なんだろうな,つくることと生きることを切り離してはならん,っていうのかな」のとおり,モノづくりだけなく,人との関係づくりにおいても,生きることと切り離しちゃいかんのだ。
 市子ちゃんと三宅ちゃんとほぼ同世代であろう私は,特にそう思う。


読書感想文「フィンランド 幸せのメソッド」堀内 都喜子 (著)

 社会生活を営む人間とは,ヒトであり,哺乳類である。フィンランドは,その哺乳類として人類が生殖や成長に伴って必要とされるケアや教育を,社会としてどうサポートするかにフォーカスしている。われわれは,必ず乳児期や幼児期を過ごす。哺乳類には,必然であり,その期間も長い。その弱い時期をどうするか?本書では,子どもやその家族を支える「ネウボラ」という仕組みを紹介する。我が国で,年寄りのことで困ったら,まずは地域包括支援センターへ連絡し,ケアマネさんとの対話が始まるように,フィンランドでは子どもが生まれると「ネウボラ」さんへコンタクトすることになる。我が国の母子保健が役場の保健師さんによる指導的なニュアンスを帯びるのに対し,地域にいるネウボラさんの気楽さはあるのだろう。
 こうした哺乳類である我々をサポートする仕組みが生まれるのは,なぜか。答えは簡単だ。政策を決定する側,社会をリードする側に,女性が多いからだ。1割や2割ではダメなのだ。男社会に阿(おもね)る連中が幅を利かせるだけだ。首相のサンナ・マリンが注目されるが,連立5党の党首全てが女性なのだ。近しい家族にケアをしてもらって当たり前のオッさん思考ではなく,ケアの主体となる女性が判断や決定をするのだ。当然,社会は変わる。
 かつての弱小国であるフィンランドは,先に工業化した強国・スウェーデンから「フィン,フィン」と侮蔑された人々だった。ロシアとスウェーデンに挟まれた弱小国がどう生き残りを目指したか,そんなことを考えてみてもいいはずだ。