「いじめ」という感情の発散


 とある感情が高じて行為となる。もちろん,たいていの行為は,無意識もしくは「自然と」の類いだろう。たぶん,呼吸のようなものだ。しかし,それら行為を生じさせる感情があるのだろうし,その高ぶりが極端なカタチとなって現れるのだと思う。また,その感情を意識し行動に移そうと思うことを意志というのではなかろうか。

 「いじめ」という非人間的な行為もある種の感情が歪んだまま発散したものだ。かつての「校内暴力」,「家庭内暴力」というものも同様だろう。当然ながら,その感情を自覚することなく,ただ,闇雲にその行為をまき散らしているのが,いじめ加害者の現状だろう。

 いじめは改めて大問題になっているが,トレンドとしては減少傾向にあるようで,少なくなってはいるが無くなってはいない,というところか。そうすると,これまで「暴力」となって吹き出してしまっていた感情の行方はどこなのか,と疑問に思う。

 よく,「感情を口に出していってしまえば,楽になるよ」などと小ッ恥ずかしいセリフがあるが,「ボクは昨夕,好きなテレビを見れず,寝る前に丁度,やろうと思っていたのに「勉強しなさい」と言われ,見るのを楽しみにしていた漫画のオチが先週号と対して変わりなく,今朝のご飯のおかずに納得がいかないために,こらえられないニギニギとしたものがある」などと,言われると気持ちが悪い。

 感情はある。それを言語に変換できない,故に説明して伝えることができず,暴発行為となる。

 とすると,言語表現化がそれほど進んでいるいえないならば,「感情」そのものの存在があやしいということになるのか。あえて言うなら,キョトン化とでもいえばいいのか。


 暴力は否定すべきだ。
 「暴力」以前には,どう対処すべきか。