想像力が欠けているのはどっちだ,ということ


 そういや,インターネットでそんなニュースを見たっけな,と記憶があった。

 2009年に愛知県で実際に起きた事件を元にした「先生を流産させる会」が,東京・渋谷のユーロスペースで公開されている。(略)妊娠中の教師に反発する生徒が同名の会を結成,教師の給食に異物を混ぜたり,椅子のねじが外れるように細工したりした事件だ。


2012年(平成24年)6月1日 朝日新聞 映画「先生を流産させる会」内藤瑛亮監督 不快感描き,大切なもの照らし出す


そうか,もう3年も前のことだったのか。確かに事件についての妙なざらつきは残ったままだ。
 この映画で描き出していることについて,監督が次のように語っている。

 「事件が報じられた時,ネットでは『死刑にすればいい』といった声が目立ちました。悪いことをした人間に厳罰を与えよ,と主張する人の多くは,自分が彼らの親や教師だったらどうするのかという想像力がなく,正義や善意を盾に批判だけしている。問題を起こした生徒への大人たちの対応を描きたかった」


2012年(平成24年)6月1日 朝日新聞 映画「先生を流産させる会」内藤瑛亮監督 不快感描き,大切なもの照らし出す


 悪意やそれ伴って引き起こされる悪事のその「悪さ」とは,どこから生じ,その悪くなっていってしまう時間を共有していたと想像するなら,その「悪さ」を単純に批判できるのか。今,日本中で直情的で短絡な感情の発露とは,いったい何なのだろうという疑問と結びつく。

想像力は、経験に意味を、知識に理解を提供するのを助けとなり、人々が世界を理解する基本的な能力である。


想像力 - Wikipedia


そう,人々が世界を理解できていない理由とは,まさに想像力の欠如なのであり,それが欠けているどっちなのだ,ということなのだ。