歴史は書き手と読み手を必要とする。
小説家・司馬遼太郎は、歴史エンタメを為した。あまりにも上手くて、半藤一利は嫉妬したと言っていい。そんな具合だから、司馬遼の歴史エンタメが面白すぎて、日本人はいまだに虜になっている。その一方で、体力を要する小説の執筆から離れ、司馬は後年、「街道をゆく」、「この国のかたち」、「風塵抄」の3つに時間を使う。紀行文であり、エッセイだ。あと、講演と対談をこなした。
半藤は「この国のかたち」を引く。司馬が鬼胎と呼んだ参謀本部を中心とする日本の中枢に宿った何かについて、半藤の専門の昭和史の側から迫った。
2025年のいま、わが国は、長い経済敗戦とデジタル敗戦の戦後処理と復興下にある。団塊ジュニアを中心に莫大な犠牲を払い、国力を落とした。理由は明らかで、指導者に複式簿記の知識も貸借対照表を読む者を得なかったこと、アトムとビットの違いを腹落ちして理解できていないことだ。数字を読めるリアリストである幕末の英傑が明治国家を作ったことと対照的だ。だが、日露戦争後、我が国の中枢はリーダーが空念仏を唱える者だけとなった。太平洋戦争後に政治家・石橋湛山が出てきたのも、リアリストとしてだった。その後の派閥の領袖たちは敗戦も戦後の混乱も肌身に染みていた。
おそらく、我が国のリーダーに、ヒューマニズムを持ったリアリストが求められている。それと同時に、経済敗戦とデジタル敗戦を浮かび上がらせる国民作家の登場も待ち焦がれている。
